カテゴリー別アーカイブ: photo essay

三枚の名刺



フリーのカメラマンという仕事柄、浮き沈みというものも多々ありました。
30歳のころ順調に進んでいた出版社の仕事が、本の売れ行きが悪くて、ある日突然に 凍結することになってしまったのです。
忙しくなるのでよろしく頼むと言われていたので、私は助手を雇って新しい撮影機材も買い込みおまけに中古のマンションまで購入した矢先の出来事でした。

困り果てて仕事を探し廻っている私に、妻の母が当時勤めていた会社の上司のKさんと会って相談するようにと話しを進めてくれました。
私は勇んでKさんに会いに行きました。
Kさんは3枚の名刺にそれぞれ紹介する出版社や代理店の担当者の名前そしてその下に「亀村俊二君を紹介します」と書いて「この名刺を持って会って来なさい」と言ってくれたのです。
早速、私の撮った写真と渡された名刺を大事に持って紹介された三つの会社の担当者に会いに行きました。
Kさんからの紹介の名刺を渡すと快く私の写真を見てもらうことが出来ました。

そして幸運なことにそのうちの2社からすぐに撮影の依頼を受けることが出来たのでした。
窮地を救われたほんとうに大きな出来事でありました。

あれから30年、今はもうそれらの会社の撮影はしていませんがその会社からの紹介を受けて次々と繋がって今に続いています。
大きなきっかけを作ってくれた義母は昨年の暮れに88歳で亡くなりましたが「あの三枚の名刺に救われたなあ」と時折、想い起こすことがありKさんや義母に今も大変感謝しております。

亀村 俊二

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父からもらった本



食卓の側の本棚を何気なく見ていると一冊の黄ばんだ背表紙が目に入って来ました。
確か15年程前、父がまだ元気だった頃この本を私にくれたのでした。
私は忙しさにかまけて読むこともしないでそれを本棚にしまい込んでいたのでした。

懐かしくなってページをめくりました。
驚いたことに、ところどころの頁にはキャラメルの包み紙を几帳面に畳んだ付箋が挟まれており そして重要な所には鉛筆で弱々しい線が引かれているではありませんか。
それを読むと父もある時期そうとう悩みながら生きて来たのだなあと思われました。

「男の更年期にあたる時期で、毎日がとてもしんどく感じられた頃・・・」
「男の惑いの季節・・・」

など、男の社会的活動の減速期に受けるショックにまつわるものでした。
ところが、この本が発行されたのは父が75歳の頃、とうに更年期は過ぎているころだったと思われます。
今までの人生と照らし合わせて、いろいろと考えていたのでしょうか。
当時、仕事に生活に危なっかしく見える息子をはげますためにこの一冊の本を託したのでしょう。

父が亡くなって10年、今頃になって気付かされる私でありました。
男の更年期まっただ中の今・・・

亀村 俊二

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赤まんま



何時の頃からか玄関の側溝のコンクリートの隙間をぬって イヌタデ「赤まんま」という植物が生えてきました。 夏から秋にかけて赤い穂をつける可憐な雑草です。 その年もあちこちのコンクリートの隙間から芽が出始めました。

私はそれをもっと立派に育ててやろうと 土を買って来てしっかりと肥料も施しました。 しかし、数週間してもほとんど変わりなく 変わらないどころかだんだんと弱って来たので気がかりでありました。 季節も変わり雑草達も黄色く枯れ 私が入れたコンクリートの隙間の土も時とともに消えてしまいました。

ところが次の年、いつものようにいつもの隙間から 「赤まんま」は元気に芽を出しました。 そして夏にはコンクリートの表面を赤と緑のまるで絨毯のように染めてくれたのです。

「恵まれすぎたらあかんなあ」
この力強い「赤まんま」を見ていて、ふっと今の私達に置き換えるのでありました。

亀村 俊二

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地震速報



先日、東京のホテルで宿泊していた時のことです。
朝の6時過ぎだったと思います。

枕元に置いた、携帯電話のけたたましいベルで驚いて目を覚ましました。買ったばかりの新しい携帯電話を覗き込むと「地震発生!、今から強い揺れが来ます。マグニチュード8」  正確には覚えていませんが確かこのようなメールが届きました。

「ええっ!マグニチュード8か!」
とうとう東京大地震が来るのか、とベッドの上で上半身を起こして身構えました。 ところが10秒たっても20秒たっても強い揺れは来ませんでした。 数分後、先ほどの地震速報は誤であったとテレビのニュースで流れました。

私はうろうろと部屋の中を歩きまわって興奮した心をしずめながら、地震速報があってからのわずかな時間自分はさて何をしていたのかと思い返しました。

すると身の安全を確保するための行動は何もしていません。
枕で頭を覆うこともなく、ただ今か今かとその時を待っていただけだったのです。 もっともホテルの一室で、周囲には倒れて来る恐れのあるものが何も無かった こともあるのですが・・・。

閉じ込められる恐れのあるドアは開けておいたほうがよかったかなと しばらくたってから思いついて反省しておりました。

最近の地震予報が進んでいるのにも驚かされますが なにも知らなくて持っていた携帯電話の緊急ベルにびっくりさせられた次第です。

亀村 俊二

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脳内活性



二十代の頃
夕刻、仕事から帰ってくるとふろしき包みをさげた祖母が表通りに立っていました。
「おばあちゃん、どおしたん?」
「もうすぐお迎えが、来やはるし」
出かける時にはいつも髪を結っておしゃれな姿着の祖母が その時は、はっきりと違っておりました。
そのことがあってから祖母の痴ほう症状は少しずつ進んでゆきました。
夜、眠っていると襖が開き ふろしき包みをさげた祖母が枕元に立っています。
「お迎えが、来はったし行って来ますわ」
と言っていつも私を驚かせていました。
そんな頃、私達は結婚してその家に同居することになり
両親と祖母と私達の新しい生活が始まったのです。
程なく子供が生まれました。祖母にとってはひ孫です。
私の妻が「おばあちゃん、ちょっと、お守りしといてな」
といって、膝に赤ん坊をあずけると
祖母は嬉しそうにひ孫の守りをしてくれました。
私達は忘れていました。
数年前まであんなにいろいろあった痴ほう症(認知症)が
すっかり消え去っていたのを。
祖母はその後毎日、新聞を読める程に快復し
八十八歳まで楽しく暮らすことが出来ました。

もうすぐ、次男夫婦との同居が始まります。
今とは違った新しいあわただしい生活の刺激から
年齢は異なるものの、あの時の祖母のような「脳内活性」が
私達にも始まるようにと願うものです。

亀村 俊二

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本が返って来た



15年前、私が始めて写真の授業を担当した教え子から
連絡があり、我が家に遊びに来ることになりました。
彼女が卒業してから、久しぶりに会えるので私は朝からすべての用を済ませ今か今かと待っていました。
彼女は同級生をつれて3人で約束の時間に
やってきました。
コーヒーを飲みながらそれぞれに近況を語り合い懐かしい話で盛り上がっていました。
突然、なかの一人が、「先生それでは本題に入ります。」
と照れくさそうに、鞄から数冊の写真集を取り出したのです。
「これ、先生からお借りしてた本です。 」
「ずっと気になっていたのですが、今になってしまって」
「これを返すまで先生にあわす顔がないと、いつも思ってました。」
「すみませんでした。」
彼女は申し訳なさそうにあやまりました。
写真集を貸していたことさえ忘れていた私は 笑ってその本を受け取るとともに
彼女のほっとした視線を感じました。
こんなにうれしいことはありません。

彼女たちが帰って行った明くる日
15年もの長い間、借りっ放しになっていた本を勇気を出して
返しに来てくれた彼女のことを想い
誰にでもこんなことって、あるなあと想像したとき

そうです、自分にもある、いろいろと
世間に不義理してきたことが・・。

返って来た本を見つめながら
なんだか考えさせられる思いでありました。

亀村 俊二

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家族



東京の次男夫婦が仕事の都合で京都に移り住むことになりました。 息子からその話を聞いた時、どこに住むのかと尋ねてみました。 彼らは何のためらいもなく、私達と一緒に住むと言いました。 そんなに広くはない家なのですが親と同居すると言ってくれることは ありがたいことではあります。

一つの家に二家族が住むとなると 日々の生活すべてにおいて自由気ままにとはいきません。
しかし、よく考えてみるといろいろと利点も考えられます。
まず、この経済不況の中、別々に暮らすより一緒に暮らす方がより経済的効果が得られます。

そして、それにも増して良いことは、 私達が経験して来た社会生活の常識や工夫を若い夫婦に伝えることができます。
また、その逆で私達が若い世代から得るものも数多くあるでしょう。

核家族化が進みすぎた今、世の中はすさんだ世相となってしまいました。
せめて家族の中からでも「きずな」を大切にして、 それぞれ、人の気持ちを思いやる心を育むことが肝要ではないかと思います。

思い返せば、私達夫婦も若い頃、私の実家に大家族で暮らしておりました。
祖母と両親、私達と息子3人、そして同じ敷地内に母方の家族が暮らしていましたから
全員集まると12人です。
息子もそんな幼い頃のにぎやかに暮らした大家族生活を思い出し
「一緒に住もう」
と言い出したのだと感じております。

生活共同体としての「家族」
今の時代だからこそ見なおしてみるべきではないでしょうか。

亀村 俊二

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ご先祖



27年前のことです。祖母が亡くなった後、親族が集まってこれで昔を知る人がいなくなったことが話題になり、それでは亀村のルーツを探しにゆこうということになりました。

先祖は京都の京極通り四条に饅頭やを営み明治の初めの本門佛立講の熱心な信者でありましたが、それ以前のルーツが私たちにはさっぱりわかりませんでした。ただ、兵庫県の奥佐津(城崎温泉から海岸方向に列車に乗って二つ目の駅)辺りから京都に出て来たらしいということは祖母から聞いていたのです。

私はまず電話局に行って兵庫県の電話帳を調べてみました。
佐津の電話帳には亀村姓が数多く並んでいるのを知って、これをたよりにそこへ行ってみれば何かがわかると確信したのでした。

ほどなく親族がいろいろな情報を持ち寄り兵庫県の奥佐津に行ったのです。
そこは山陰海岸から車で15分ほど山間に入ったところで、三方を山に囲まれた小さな村落でありました。私たちはまず村のはずれのお寺を訪れ、明治以前に京都に出て饅頭やになった者がいなかったかを尋ねてみました。

過去帳を調べてもらったのですが、その村のほとんどが亀村姓なのでなかなかこれといった手がかりは出て来ません。今度は村の一軒一軒を訪問してみることにしました。ところが運良く始めて出会った人に、そのむかし、村を後にした亀村の墓があることを教えてもらうことが出来たのです。

墓地は日あたりの良い山の斜面にありました。
そして私達の先祖をお祀りしてあるお墓はすぐに見つかりました。

禅宗の墓碑が並ぶ中、ただ一つだけ法華経の墓が京都のそれと同じ様相で立っていたのです。百年もの時が経っているのでさぞかし荒れているだろうと想像してたのですが、周囲には雑草もそれほど茂ってなく、墓石も古いものではありますがまだまだしっかりとしておりました。 それにしても、明治の時代にこの山奥の地でお墓を立て替えられたであろうご先祖にはまことに感心させられました。

その出来事があってから代々この墓を守っていただいた村の人たちとご先祖に感謝しながら毎年お墓参りをさせていただくようになったのであります。

亀村 俊二

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京の雑煮



子供の頃の正月風景を思い出しました。私の家は祖母と両親、兄と私の5人家族でした。 ご宝前のお祀りされた六畳間に集まって家族そろってのお参りを終え四畳半の居間のふすまを開けて少し広いめの間をつくると ご宝前に近い上座から祖母、父と順にお膳を並べます。
末っ子の私はいちばん端です。

朱塗りの膳の上に同じ朱塗りの椀や皿が四方に乗っています。 父の膳は大きくて次に兄で私の膳はいちばん小さなものでした。 祖母と母の膳は黒塗りで高い脚のついたもので椀は黒塗り中が朱に塗られたものでした。

元旦の挨拶を終え、祝い膳に箸をつけると新しい歳が始まります。 京都の雑煮は丸餅と頭いもの白味噌味仕立てを三ヶ日続いていただきます。頭いもは人の頭になれるようにと、大根や小芋そして花がつおがかけられゆらゆらと揺れています。

私は子供の頃、その濃厚な甘い白みそ雑煮が苦手でした。ところが、ふだんから小食ぎみの両親や祖母は一つ、もう一つと うまそうに餅をほうばります。

「この餅のどこがおいしいのやろ」と子供ごころに感じておりました。

今年も年末を控え正月を迎えます。
あの頃のように座敷で膳を並べ、大人達はきものなんぞ着て正月を祝うようなことなどなかなか出来なくなってしまいました。

もうすぐ息子たちが遠方から帰って来ます。 そしてあの白みそ雑煮をうまいうまいとおかわりするものもいますが 私と家族の数人はやはり未だに苦手なままでいるのです。
京都の雑煮とはそんな不可思議なものであると私は感じております。

亀村 俊二

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エコロジー



数年前から私は写真撮影の移動手段として天気のよい日には補助電動機付き自転車を利用することにしてきました。
最近小型化しているデジタルカメラを前かごに入れ、三脚は荷台に結びつけます。
京都市内を自在に走って、目的地に着いてからの写真撮影はなんとも爽快であります。

先日、日経新聞に東京大学名誉教授の月尾嘉男氏はこんなことを書いておられました。
「環境対策の一つのステップとして最後に必要になるのは精神革命だ。
大型の車に乗る事が地位の象徴ではなく、むしろ小型車、場合によっては自転車に乗ることが格好いいという精神構造が必要になる。」

7年前、私は大きめの自家用車を軽自動車に乗り換えました。
私の場合は経済的理由からでもあるのですが月尾先生の書いておられた精神革命とまではいかないにしても「軽自動車が、自転車がエコロジーで格好いい」と思って乗っているのも事実でこの記事を読ませてもらって、なんとも、ほっとしている次第であります。

亀村 俊二

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